今日の、キャッツ、、、特定できません。
本当は、
「今日の、佐渡寧子さん」とか「寺田真実ちゃん」とか、
なにより注目の「武藤 寛くん」とかでタイトルを決めたかったのだけど、
どれも、抜きん出ていた、というわけでも、失敗した、というわけでもないし、
なにより、全体として大変見事にまとまっていたので、
タイトルに取り上げ難かった次第。
そもそも、もっとも注目していた「武藤タガー」は、
もう、その演技があまりにも堂に入っていて、お見事。
当初から「揺ぎ無い」という評価を散見していましたが、
改めてこうして直接観てみると、もうまさに「武藤タガー」が完成している。
特に素晴らしいのが、最後のメモリーでの彼。
武藤タガーは、「ラム・タム・タガーとは、かくあるべし」という姿勢が見事。
その、ある意味で相方のグリザベラ。
佐渡さんの抑制の効いた発声で届けられる『メモリー』は、
「なるほど、そういう解釈もあるのか」と、驚かされる歌唱。
それは「穢れの無いグリザベラ」といったところか。。。
「娼婦」と呼び捨てられるゆえに、そういう視線でしか見てなかったけれど、
佐渡グリザベラには、なにかもっと深い、ある意味では「空恐ろしい」、
ある種の「自己否定」を感じてしまう。
いや、それも積極的な「否定」ではなくて、
「自己を肯定する」という経験をしないままに老成してしまった感じ。
そもそも、
このミュージカルには「ジェリクル・キャッツ」しか登場しないハズのに、
そこに、蔑まれる『グリザベラ』というキャラクターが配されているのが不思議。
その不思議に、佐渡グリザベラは、
「資質はあるのに、自己を肯定し、表現し、伝える」
という経験をしてこなかった猫として捕らえている、と受け取れた。
そう、まるで、深窓の令嬢がデビューする機会の無いままに老成したような、
そんな感じ。
第一、「娼婦」と呼ばれる所以は、過去の事実とは限らないわけで、
「娼婦のような」というニュアンスをどう捕らえるか、がポイントなのだと思う。
また、再び出現した「野中マンカス」は、
相変わらすの「宴会部長」的なスタンスで、まるで芋洗坂な風情なのだけれど、
彼が、二度目にクリザベラを制する辺りの芝居には、
実に深いメッセージが潜んでいる気がした。
さて、みかん星人大注目の「寺田ガス」だけれど、、、これまた、、、
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