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2008年9月11日 (木)

『闇の子供たち』

小説の『闇の子供たち』に関しては、僅かに知っていたけれど、
著者に関しては、実は、名前の読み方を知らなかった(笑)
『血と骨』等で知られる「梁 石日(ヤン・ソギル)」氏の、
その小説『闇の子供たち』は、手に取るのも怖いほどに「重そう」な小説で、
桑田くんがその映画のテーマを書いたと知っても、読む気にならなかった。

そしてだから、この映画を観るのにも、かなり「勇気」が必要だった。
 (相変わらず、細かい事は公式サイトでどうぞ)

実際、この映画はかなり「重い」ものだった。
時に「劇映画」というよりも「ドキュメンタリー映画」を観ているようで、
とても「娯楽映画」とはいい難い作品。

「タイの不幸な子ども達」は、
この映画の中で「ありえない程に不幸な子ども達」だ。
彼らをもてあそぶ「おとな」嫌悪を感じるのはもちろんだけれど、
その仕組みに関して「見て見ぬフリ」をしている総ての人達にも、
同じように気持悪さを感じる。

そう、「他ならぬ、そう感じている、観ているお前が、そうだ」と言われている。

事実、タイにおけるこの現実を、私は「知らなかった」とは言わないし、
その程度も「想像していた状況」に近いと感じた。
もちろん映像として突き付けられると、もの凄く嫌な気分になるけれど、
「知らなかった」のではなく「本当にこんなに酷いのだ」と、
そう再確認をする自分が、それだけの自分が、居心地悪い。

この映画を観て、
「こんな事が行われているなんて、ちっとも知らなかった」
という人がいたら、会ってみたい。
この映画を観て、
「だから、ちゃんとこんな行動をして、阻止をアピールしている」
という人がいたら、やはり、会ってみたい。

さて、これだけの思いを感じさせてくれた映画だから、
出演者の演技は、確かに素晴らしい。
主演の江口洋介くんには、微妙な影が付きまとうけれど、
その「微妙」な加減が実に上手くて、どんどん惹き込まれる。

彼の相棒として登場する豊原功補さんは、見た目にも好きな役者だけど、
この役の「軸」をしっかりと捕えていて、これがとても素晴らしい。

ちょっとだけ、けれど重要な役で登場した佐藤浩市さんも、
演技を感じさせない視線と動きがさすが。

もちろん、上映時間の七割ほどタイでの描写なので、
タイの役者、もちろん虐待される子どもも含めて、が登場する。
タイでも悪役が多いと言う、人買いのチットを演じたスワンバンさんが、
とても複雑で、いやらしい役処を素晴らしい表現でみせていた。
彼の中に在る「虐待された記憶」が、私には最も悲しいものだった。

他にも、宮崎あおいさんと妻夫木聡さんが出ている。
妻夫木くんは、まさに正しい役不足。
宮崎さんは、たぶんとても鋭い演技だったのだろうけれど、
ああいう「自分探しで騒動する人(の役)」が大嫌いなので、どーでもいい。

さて、こんなにたくさん書いておきながら、
実は、この映画で一番いろいろと考えたのは、
映画の内容ではなく、エンドクレジットの背景に流れた桑田くんの歌。

なので、この先は、映画とは全く関係の無い内容になります(笑)

2007年の12月に桑田くんがソロ活動の締めくくりに出したのが、
『ダーリン』というシングル盤だった。
収録されていたのは、他に、『現代東京奇譚』と『The Common Blues』。
CDに貼られていたシールには、
『ダーリン』は「アサヒ飲料『WANDA』CMソング」とあって、
その暮れにあったライブでは、その缶コーヒー(未発売もの)が配布された。

そして『現代東京奇譚』には「映画『闇の子供たち』主題歌」と書かれていて、
先に書いたように、ちょっと複雑な思いでこの映画を待っていたりした。
とうとう公開されて、勇気を出して観にいって(笑)
重々しい映画が終って、ピアノのイントロが流れて、歌詞が映って、
「あー、本当に、この映画のための曲だったんだ」と確認していた。
この映画を観る前に感じていたこの曲への印象は、
勿論「そういう映画のために書かれた」と知って聴いていたのもあるが(笑)
ほとんど変る事が無く、改めて桑田くんの読みの深さに感心した。
 (まあ、映画好きとして考えると、
  「この映画の終りにこの曲は、如何なものか?」と思わなくは無いけど)

少し前に、「サザンオールスターズの歌詞」について書いたのだけれど、
この『闇の子供たち』をみて、改めて、桑田くんの歌詞について考えた。

その記事にも書いたけれど、
桑田くんが「サザン」名義で書く詞は、印象的な【単語】や【文節】を使って、
けれど、とても曖昧な、どうとでも解釈できる世界を構築している。
ところが、「桑田佳祐」のソロ活動で書く歌詞は、
思ったよりも【文章】になっている事が多く、イメージをどんどん限定する。
この映画のために書かれた『現代東京奇譚』では、
「 明日の行方も知らない羊達の群れ 都会の闇に彷徨い身を守るだけ 」
と、ほとんど小説の一節のような歌詞で始まる。

これは、この『現代東京奇譚』に特別な事ではない。
映画を観た後に、彼のソロ曲をいろいろ思い返したけれど、
どの曲も、とてもイメージを限定していることに気がついた。
例えば、彼が自ら「20世紀の名曲」に選んだ『月』は、こんな出だし。
「 遠く遠く海へと下る 忍ぶ川のほとりを歩き
  果ての町にたどり着く頃 空の色が悲しく見える 」
もう、ほとんど五木ひろしさんの歌のような「流行歌」だけれど、
この焦点が合って行く感覚が、桑田ソロ曲の特徴だ。

もう一曲あげよう。
かなり「サザン」な匂いがする『波乗りジョニー』でも、そのサビはこうだ。
「 だから好きだと言って 天使になって そして笑ってもう一度
  せつない胸に波音が打ち寄せる 」
実にストレートで、額面どおりにしか受取れない単純さがある。
これが、もし「サザン」名義だったら、
きっと「だから」とか「そして」という言葉を使わずに、
もっと乱暴に天使を求めて心臓をバクバク言わせるだろう(笑)

この映画のエンディングで、改めて歌詞を観ながら聴いた事で、
サザン」と「桑田ソロ」の楽曲の違いを、ようやく、感じた次第。

こんなことを交互に30年も続けて来たのだから、確かに尽きるよね(笑)
桑田くん、また映画でも、いや映画音楽でいいから、やってほしいぞ。

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