『闇の子供たち』
小説の『闇の子供たち』に関しては、僅かに知っていたけれど、
著者に関しては、実は、名前の読み方を知らなかった(笑)
『血と骨』等で知られる「梁 石日(ヤン・ソギル)」氏の、
その小説『闇の子供たち』は、手に取るのも怖いほどに「重そう」な小説で、
桑田くんがその映画のテーマを書いたと知っても、読む気にならなかった。
そしてだから、この映画を観るのにも、かなり「勇気」が必要だった。
(相変わらず、細かい事は公式サイトでどうぞ)
実際、この映画はかなり「重い」ものだった。
時に「劇映画」というよりも「ドキュメンタリー映画」を観ているようで、
とても「娯楽映画」とはいい難い作品。
「タイの不幸な子ども達」は、
この映画の中で「ありえない程に不幸な子ども達」だ。
彼らをもてあそぶ「おとな」嫌悪を感じるのはもちろんだけれど、
その仕組みに関して「見て見ぬフリ」をしている総ての人達にも、
同じように気持悪さを感じる。
そう、「他ならぬ、そう感じている、観ているお前が、そうだ」と言われている。
事実、タイにおけるこの現実を、私は「知らなかった」とは言わないし、
その程度も「想像していた状況」に近いと感じた。
もちろん映像として突き付けられると、もの凄く嫌な気分になるけれど、
「知らなかった」のではなく「本当にこんなに酷いのだ」と、
そう再確認をする自分が、それだけの自分が、居心地悪い。
この映画を観て、
「こんな事が行われているなんて、ちっとも知らなかった」
という人がいたら、会ってみたい。
この映画を観て、
「だから、ちゃんとこんな行動をして、阻止をアピールしている」
という人がいたら、やはり、会ってみたい。
さて、これだけの思いを感じさせてくれた映画だから、
出演者の演技は、確かに素晴らしい。
主演の江口洋介くんには、微妙な影が付きまとうけれど、
その「微妙」な加減が実に上手くて、どんどん惹き込まれる。
彼の相棒として登場する豊原功補さんは、見た目にも好きな役者だけど、
この役の「軸」をしっかりと捕えていて、これがとても素晴らしい。
ちょっとだけ、けれど重要な役で登場した佐藤浩市さんも、
演技を感じさせない視線と動きがさすが。
もちろん、上映時間の七割ほどタイでの描写なので、
タイの役者、もちろん虐待される子どもも含めて、が登場する。
タイでも悪役が多いと言う、人買いのチットを演じたスワンバンさんが、
とても複雑で、いやらしい役処を素晴らしい表現でみせていた。
彼の中に在る「虐待された記憶」が、私には最も悲しいものだった。
他にも、宮崎あおいさんと妻夫木聡さんが出ている。
妻夫木くんは、まさに正しい役不足。
宮崎さんは、たぶんとても鋭い演技だったのだろうけれど、
ああいう「自分探しで騒動する人(の役)」が大嫌いなので、どーでもいい。
さて、こんなにたくさん書いておきながら、
実は、この映画で一番いろいろと考えたのは、
映画の内容ではなく、エンドクレジットの背景に流れた桑田くんの歌。
なので、この先は、映画とは全く関係の無い内容になります(笑)
2007年の12月に桑田くんがソロ活動の締めくくりに出したのが、
『ダーリン』というシングル盤だった。
収録されていたのは、他に、『現代東京奇譚』と『The Common Blues』。
CDに貼られていたシールには、
『ダーリン』は「アサヒ飲料『WANDA』CMソング」とあって、
その暮れにあったライブでは、その缶コーヒー(未発売もの)が配布された。
そして『現代東京奇譚』には「映画『闇の子供たち』主題歌」と書かれていて、
先に書いたように、ちょっと複雑な思いでこの映画を待っていたりした。
とうとう公開されて、勇気を出して観にいって(笑)
重々しい映画が終って、ピアノのイントロが流れて、歌詞が映って、
「あー、本当に、この映画のための曲だったんだ」と確認していた。
この映画を観る前に感じていたこの曲への印象は、
勿論「そういう映画のために書かれた」と知って聴いていたのもあるが(笑)
ほとんど変る事が無く、改めて桑田くんの読みの深さに感心した。
(まあ、映画好きとして考えると、
「この映画の終りにこの曲は、如何なものか?」と思わなくは無いけど)
少し前に、「サザンオールスターズの歌詞」について書いたのだけれど、
この『闇の子供たち』をみて、改めて、桑田くんの歌詞について考えた。
その記事にも書いたけれど、
桑田くんが「サザン」名義で書く詞は、印象的な【単語】や【文節】を使って、
けれど、とても曖昧な、どうとでも解釈できる世界を構築している。
ところが、「桑田佳祐」のソロ活動で書く歌詞は、
思ったよりも【文章】になっている事が多く、イメージをどんどん限定する。
この映画のために書かれた『現代東京奇譚』では、
「 明日の行方も知らない羊達の群れ 都会の闇に彷徨い身を守るだけ 」
と、ほとんど小説の一節のような歌詞で始まる。
これは、この『現代東京奇譚』に特別な事ではない。
映画を観た後に、彼のソロ曲をいろいろ思い返したけれど、
どの曲も、とてもイメージを限定していることに気がついた。
例えば、彼が自ら「20世紀の名曲」に選んだ『月』は、こんな出だし。
「 遠く遠く海へと下る 忍ぶ川のほとりを歩き
果ての町にたどり着く頃 空の色が悲しく見える 」
もう、ほとんど五木ひろしさんの歌のような「流行歌」だけれど、
この焦点が合って行く感覚が、桑田ソロ曲の特徴だ。
もう一曲あげよう。
かなり「サザン」な匂いがする『波乗りジョニー』でも、そのサビはこうだ。
「 だから好きだと言って 天使になって そして笑ってもう一度
せつない胸に波音が打ち寄せる 」
実にストレートで、額面どおりにしか受取れない単純さがある。
これが、もし「サザン」名義だったら、
きっと「だから」とか「そして」という言葉を使わずに、
もっと乱暴に天使を求めて心臓をバクバク言わせるだろう(笑)
この映画のエンディングで、改めて歌詞を観ながら聴いた事で、
「サザン」と「桑田ソロ」の楽曲の違いを、ようやく、感じた次第。
こんなことを交互に30年も続けて来たのだから、確かに尽きるよね(笑)
桑田くん、また映画でも、いや映画音楽でいいから、やってほしいぞ。
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