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2006年12月19日 (火)

『武士の一分』

『たそがれ清兵衛』も『隠し剣鬼の爪』も観ていないみかん星人ですが、
この『武士の一分』は観に行ってきました。
シネコンで6回観ると一回タダになるという事で、選んだ1本でしたが(笑)

最近の邦画は、なかなか健闘していますね。
脚本も良くできていますし、演出も演技もなかなか。
で、この『武士の一分』で「をを」と感じのは、「音の良さ」でした。
ここで言いたい「音の良さ」というのは、台詞の言葉が明瞭であることばかりでなく、
たとえば「衣擦れ」であったり「雷雨」の音に関しての「良さ」です。
考えてみれば、目という感覚器官を失った主人公の話ですから、
「音」に敏感になるのは至極当然なのかもしれませんね。
ともかく、この映画は、音響設計が素晴らしかった。

と、もう一点、この映画で感心したのが、「四季」を描き出す繊細さですね。
ホタル、蚊(蚊遣り)といったものを描いての季節描写は、
「季節と共に生活する日本」を上手く表現していたと感じました。

貝の毒に関しても、これは原作の凄さでしょうが、良く出来ていますね。

ただ、「果し合い」の場面は、私にはいまひとつピンと来なかった。
ひとつには、三津五郎さんが剣豪に見えないことですけれど(笑)
ああいう位置からの攻撃は、なんか「子どもじみている」感があります。
「その程度の相手で良かったね」というのが正直な感想。

ぶんそれにしても、主人公に木村拓哉くんを配したのは、意味深ですね。
彼の芝居が上手い・下手という問題ではなく、
木村くんが感じさせてくれる「ナルシスト」という部分が、実に意味深なのです。

観ていて、まず感じるのが、主人公・三村新之丞の口の悪さ。
方言という部分はともかくも、中間(従者)の徳平に対する言葉は、
「甘えている」というよりも、少しばかり「自虐的なニュアンス」を感じます。
「こんなに悪態を吐く拙にも、お前は付き従ってくれるのか?」
と、まるで交流分析で言う『キック・ミー』のゲームをしているようで、
まるで「見捨てられる寸前の交流」を楽しんで風情すらある。
と、同時に、「それでも自分は受け入れられる」と感じる新之丞の余裕は、
「だって、俺は美しいから」と云う自惚れにあった気がするのです。

つまり・・・新之丞の自信は、剣と、美貌だけ、なのではないか?
そして、この事件で、一気にその両方を失いかけてしまう。
「光を失った、もはや美しくない自分」と、
「光を失った、もはや剣を振るえない自分」にとって、
美しい妻だけが、自分を支えている存在だった。
・・・なのに、それも失ってしまう。

だから、「果し合い」に臨む新之丞は、
「必死」の中で自信を取り戻そうとするかのようであってほしかった。
「果し合い」において私が物足りなさを感じたのは、
その「必死」加減が「生きたい」というレベルに留まっていて、
「取り戻したい」という程の情熱を感じられなかったからなのかもしれないなぁ。
少し、手負って、汚れてすら欲しかったのかもしれない。。。。
ナルシストで、「見捨てられないギリギリ」を意識してきた男の覚醒にしては、
あの殺陣は、弱いと感じたのでしょう。

もうひとつ、、、けっして嫌いな役者さんではないのですが、
小林稔侍さんは、この映画では邪魔だったと思います。
一方で、笹野さん、、、素晴らしかったなぁ。

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