『武士の一分』
『たそがれ清兵衛』も『隠し剣鬼の爪』も観ていないみかん星人ですが、
この『武士の一分』は観に行ってきました。
シネコンで6回観ると一回タダになるという事で、選んだ1本でしたが(笑)
最近の邦画は、なかなか健闘していますね。
脚本も良くできていますし、演出も演技もなかなか。
で、この『武士の一分』で「をを」と感じのは、「音の良さ」でした。
ここで言いたい「音の良さ」というのは、台詞の言葉が明瞭であることばかりでなく、
たとえば「衣擦れ」であったり「雷雨」の音に関しての「良さ」です。
考えてみれば、目という感覚器官を失った主人公の話ですから、
「音」に敏感になるのは至極当然なのかもしれませんね。
ともかく、この映画は、音響設計が素晴らしかった。
と、もう一点、この映画で感心したのが、「四季」を描き出す繊細さですね。
ホタル、蚊(蚊遣り)といったものを描いての季節描写は、
「季節と共に生活する日本」を上手く表現していたと感じました。
貝の毒に関しても、これは原作の凄さでしょうが、良く出来ていますね。
ただ、「果し合い」の場面は、私にはいまひとつピンと来なかった。
ひとつには、三津五郎さんが剣豪に見えないことですけれど(笑)
ああいう位置からの攻撃は、なんか「子どもじみている」感があります。
「その程度の相手で良かったね」というのが正直な感想。
ぶんそれにしても、主人公に木村拓哉くんを配したのは、意味深ですね。
彼の芝居が上手い・下手という問題ではなく、
木村くんが感じさせてくれる「ナルシスト」という部分が、実に意味深なのです。
観ていて、まず感じるのが、主人公・三村新之丞の口の悪さ。
方言という部分はともかくも、中間(従者)の徳平に対する言葉は、
「甘えている」というよりも、少しばかり「自虐的なニュアンス」を感じます。
「こんなに悪態を吐く拙にも、お前は付き従ってくれるのか?」
と、まるで交流分析で言う『キック・ミー』のゲームをしているようで、
まるで「見捨てられる寸前の交流」を楽しんで風情すらある。
と、同時に、「それでも自分は受け入れられる」と感じる新之丞の余裕は、
「だって、俺は美しいから」と云う自惚れにあった気がするのです。
つまり・・・新之丞の自信は、剣と、美貌だけ、なのではないか?
そして、この事件で、一気にその両方を失いかけてしまう。
「光を失った、もはや美しくない自分」と、
「光を失った、もはや剣を振るえない自分」にとって、
美しい妻だけが、自分を支えている存在だった。
・・・なのに、それも失ってしまう。
だから、「果し合い」に臨む新之丞は、
「必死」の中で自信を取り戻そうとするかのようであってほしかった。
「果し合い」において私が物足りなさを感じたのは、
その「必死」加減が「生きたい」というレベルに留まっていて、
「取り戻したい」という程の情熱を感じられなかったからなのかもしれないなぁ。
少し、手負って、汚れてすら欲しかったのかもしれない。。。。
ナルシストで、「見捨てられないギリギリ」を意識してきた男の覚醒にしては、
あの殺陣は、弱いと感じたのでしょう。
もうひとつ、、、けっして嫌いな役者さんではないのですが、
小林稔侍さんは、この映画では邪魔だったと思います。
一方で、笹野さん、、、素晴らしかったなぁ。
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