『父親たちの星条旗』
「英雄がいない時代は寂しい。
しかし、英雄がいる時代は、もっと寂しい」
みかん星人が子どもの頃、こんな話をしてくれた校長がいた。
当時、その意味は解らなかった。
実は、最近まで本当の意味は解らなかった。
この『父親たちの星条旗』を観る迄は。
「旗を立てたぐらいで英雄か?」
映画の中のこんな言葉がとても重たい。
英雄は、めったな事で自然発生する存在ではなくて、
作為的に造られるものだったんだ。。。少なくとも、60年前は。
あの素晴らしいメッセージを残してくれた校長は、
太平洋戦争を20代で駆け抜けて、
「その事」を知って、伝えようとしてくれていたのだと、改めて感謝した。
そして、戦争は、
英雄を作り上げて煽っていた時代は、ついこのあいだの事なんだ。。。
いや違う、、、今も「そう」だから、イーストウッドはこの映画をつくったんだ。
この映画は凄い!
なにが凄いって、、、この映画を制作している途中で、
「日本側からの視線で、もう一本、制作しよう」
と思いついたということ、、これが凄い。
それは、別に「日本を描いたから」ということではなく、
「二つの価値観を俯瞰する力」に支えられて映画が制作されたって事なのだ。
似た姿勢で描かれた戦争映画には、古くは『眼下の敵』という傑作があるけど、
どちらかというとゲームの色彩が強い映画だった。
が、この『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』は違う。
戦争と云う極限の中での「殺す相手」の思惟を強烈に感じたのが、
ほかならぬ制作者達だった、という事だろうし、
それを、戦場場面のあらゆるところで感じる。
映画全体を「もったいない事をした」という視線が貫いていと感じた。
イーストウッド監督と云えば、『ミリオンダラー・ベイビー』という傑作があった。
みかん星人は、これを2005年の6位としたけれど、
結局ブログに記事を書けないまま、、、筆力の無さが残念。
あの映画で心酔したイーストウッド監督の「観る者に考えさせる演出」は、
この『父親たちの星条旗』では更に際立っていた。
監督は、
「戦争映画で細々と説明しても解りゃしないさ」とばかりに、
前半、説明がほとんど無いままに物語の断片を展開する。
まるで、パズルの断片を、無言のまま手渡されて、
それを眺め、ピースに描かれている「何か」を記憶すると、
静かにそのピースは取り上げられて、どこかに仕舞われてしまう感じ。
1時間ほど、そんな事が繰り返される。。。
と、後半はそれをつなぐ情報が続々と提示される。
そして、観客は数分前の記憶の断片を持ち出して、
「あ、マイクって・・・」と、
「彼がイギーで、だからジョンは・・・」と、
「なんだ、ハンクこそが・・・」と、思い知らされてゆく。。。
「いい奴は、死んだ奴だ」なんて言葉すら思い起こす。
誰かを印象付けるには、確かにそういう場面が強烈だと思った。
生きて、英雄にされてしまった3人のうちの一人が、
アメリカ先住民・ピマ族出身の海兵隊員だったというのが、歴史のいたずら。
環太平洋民族だからアルコールに弱いと云うこともあるけれど、
彼が崩壊して行く様は、本当に厳しい。
彼のエピソードだけをみたって、戦争がいかに虚しいか、伝わる。
(だからと云って、戦争という外交手段は無くならないだろうが・・・)
さしあたり、『硫黄島からの手紙』にも期待したい。
そうだ、、、この映画「吹き替え版」があります。
でも、オリジナルでちゃんとした日本語が出てきますので、
できれば字幕でご覧になったほうが良いですよ。
「どっちも日本語を話している戦争映画」は、気持ち悪そうです。
もうひとつ。。。。原題は「旗」が複数になっている。。。上手いなぁ。
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