『砂の器』
松竹110周年とかで、関係ないのかな?
『砂の器』がデジタル・リマスターされて東劇で上映されています。
この映画はみかん星人が中坊だった頃に公開されて、かなり話題でした。
小説は読みましたが、その小説が重くて面白くなかった事もあり、
今回の鑑賞が初めての鑑賞となりました。
13歳の私にこの小説の意義が分かるはずも無く、
また、テーマとなった事柄も「違う世界の問題」と思っていた頃でしたので、
当時観ていても無駄だったんだろうなぁ・・・
2時間20分もある映画。
みかん星人は「100分超えたら駄目よ」と思っていますが、
少なくともこの『砂の器』は飽きずに観ることができました。
(ま、本気で無駄を省いて100分にしていたら、世界じゅうで愛されたでしょうが)
その理由の大半は、後半の組曲『宿命』を織り込んだ演出にありましょう。
曲と過去とが織り成すタペストリーが美しく、
またその完成したものが観る者に突きつけるメッセージの強烈さは、
他に類をみない程に完璧と言っていいでしょう。
実は、この映画を観ていて「ほー」と感心というか感動すらしたのが、
「物語の根幹は刑事の視線だけで作られている」という点。
つまり犯人の心情はおろか、その動機すら刑事の「推理」でしかないのです。
原作を読んだのが30年以上前なので憶えていませんが、
こんなにも一方的な物語ではなかった気がするのですが・・・
ともかく、この大胆な演出(脚本)によって、
この映画は「見て来た様な嘘」を語る浪花節的な質感を持つのですね。
「本当のところ」は分からないけれど、
「こうに違いない」という決め付けの中にある湿度が、不思議と心地よかった。
それにしても、この映画が30年前にできていて、
当時多くの日本人が鑑賞し感動たにも関わらず、
「世の中は殆ど変わってこなかった」という現実は、どう考えれば良いのでしょう。
例えば、数年前にHIVに感染して苦悩する女の子を主人公にしたドラマがありましたし、
車椅子で生活をするヒロインの恋愛を描いたドラマは高視聴率を取りましたね。
ですが、この国ではHIVポジィティブは増え続け、
街角には放置自転車がいっぱいで車椅子が通行できない状況が続いています。
この国は、バカばかりが住んでいるのか?
ま、そんなこんなで、感激するとともに、落胆した今日でありました(笑)
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